いろいろあって結果的に医者になりました。私は1981年、31歳の時に兵庫医大を卒業しました。兵庫医大に入学してすぐに結婚し、子供も生まれて、二人目の子供も生まれて、二人子どもがいる状態で医学生として過ごしました。僕は金を稼がないので育児担当で、朝と夜の保育所の送り迎えを私が自転車の前と後ろに二人を乗せてという生活でした。医者になってからもう一人増えたので子供は三人なのですが、そういう状況でアルバイトに精を出しながら医学部を卒業しました。
卒業後すぐに研修病院へ、手っ取り早く「一人前」になれる所ということで早くものになるというか就業期間が短くてもごまかしが利くという意味で内科を選択しました。病院での研修生活は「早く一人前に」ということでかなりハードなものでした。
医学部に行けたのは、地域の人たちに支えられて奨学金をもらったり、昔の学生時代の仲間に助けられたからです。具体的には同和地区、部落の地域の中で支えられて奨学金をもらって医者になったのです。
研修医時代から大阪市大の先生が応援してくれ、そこの地域の村の小さな診療所で当直をしていました。研修中ですから病院の当直もあるのですが、それ以外の日も週に二回、私が育った地域の診療所に大体夜の9時から朝の8時まで一人で泊まって当直です。
本当に一人なのです。木造の民家より少し大きいぐらいの診療所で、2階の1室に一人で泊まって、電話がかかってきたら自分で出て、カルテも自分で探して出して、家がわかっている所だったら自分で行って、わからない時は地域の角々のシンボルの「あの店屋さん」とか「何とかの酒屋さん」とか「ホルモン屋さん」の前で待ち合わせて、迎えに来てもらってお宅に伺っていました。
そういう訪問診療を研修医の時から、病院で勤務するようになっても15年ぐらい続けました。今では、その診療所では当直はやっていません。が、時代も変わり、制度も変わった今も週二回診療に行っています。その時は、いろいろと勉強になることがありました。
「おなかが痛い」とウンウンうなっていて、便が1週間出ていないというほぼ寝たきりのおばあちゃんに対して摘便を行いました。「摘便」というと本を読んでいて、学校でも聞いたことはあるけれども「医者」である自分たちがやる仕事と教えられたことはありませんでした。けれども、一人ですから自分で摘便をするしかありません。
転倒して足首の骨折の場合は、その頃は救急車を呼んですぐに行くという習慣はなかったので、交通事故とか生き死に関わることは別ですけれども骨折ぐらいだったら、いったん仮固定をして次の日の専門医受診につなぐとか、そういうことを経験しながらやりました。今となればおもしろかったです。
夜の10時過ぎに、屋台のうどん屋さんが来るんです。近所の会館の植え込みというかそういう所に。今でこそ「油かすうどん」はポピュラーで高槻にもありますが、当時は村の人が食べるだけでした。そのうどん屋さんが来るのを待って油かすうどんを食べるのが夜の楽しみでした。
朝は村の風呂屋さんが6時からやっているんです。当直が明けたら露天風呂につかって、さっぱりしてから自分の病院に出勤していました。そんなわけで自分の病院にはよく遅刻していました。村の診療所での当直もそういう楽しみがあってやってきていました。
一晩に二人か三人ぐらい往診する。はっきり言って、しようもない往診もあるんです。「先生が泊まっている曜日はわかっているから電話してきた」「外来行ったら混んでいるから往診に来てもらった」。実は往診の必要はないのですけれどもね。行ったらお茶を用意してあったり、下手したら鍋を用意してあったり、そういう「接待」というか、全然往診ではないようなこともやってきました。